リッチーブラックモア(レインボー&ディープパープル)の復活が、邦楽に与える影響は?
前回の記事でも書いたが、
『リッチーブラックモア = 破壊神』
ということで、
多くの人は認識しているのではないだろうか??
参考:リッチーブラックモアの破壊的ライブパフォーマンスについて
しかし、
今ではそれも過去の話。
そのライブでの破壊パフォーマンスを知るのは、
リッチーブラックモアのファン、またはレインボー、ディープパープルのファンくらいだろう。
純粋に、生まれた時から日本の商業的音楽しか
聴いたことのない人間にとっては、無縁のものに違いない。
「生まれた時から日本の商業的音楽しか
聴いたことのない人間」 = 「現代の若者」
いや、
必ずしもすべての若者が、そういったパフォーマンスを知らないわけではない。
若者でもリッチーブラックモア、レインボー、ディープパープルや、ジミヘンを好んで聴いている人もいる。
だが、ここではそういった若者は除いて話を進めたい。
生まれた時から日本の商業的音楽しか、聴いたことのない人間にとって、
リッチーブラックモアやジミヘンのライブでの破壊行為はただの奇行にしかうつらないだろう。確実に。
リッチーブラックモアやジミヘンの破壊行為をただの狂った人間か、
バカな目立ちたがり屋としか、考えないだろう。
「破壊行為」と「音楽」は無関係のものとしてみなすだろう。
確かに表面的に見れば、
二つに関係性は見えない。
しかし、
その破壊行為と音楽は全くもって無関係ではない。
二つの関係性を見出すには、
音楽をどのように捉えているか?で変わってくる。
「破壊行為」と「音楽」に関係を見出すには、
音楽=自分の精神活動
として考える必要がある。
つまり、
リッチーブラックモアや、ジミヘンの破壊行為は、
彼らにとって一つの表現なのだ。
ギターが壊れた時にしか出さないアンプからの音を出したかったのかもしれないし、
単純にその破壊行為自体に何か意味があったのかもしれない。
それは、
表現者によって違うだろう。
破壊行為にはしっかりとした意味があるのだ。
しかし、
商業的音楽しか聴いてこなかった人たちにとって、
音楽とはただのファッションでしかない。
単純に表面だけをなぞって聞くようなものでしかないのだ。
そして、
そういった人が今あまりにも多い。
私はリッチーブラックモアが復活した際には、
そんな人たちに喝を入れるようなライブパフォーマンスをしてほしい。
これが本当の音楽だ!
と言わんばかりのパフォーマンスを期待したい。